初音ミクSS「君の心は、そこにある」第一章~蜜月~
正徳十九年(二○○七年)十一月三十日(金)[1]
風はいよいよ乾いた冷たさを身に纏わせ、
肌を焼くような夏の暑さなど思い出すことが難しくなってきた頃。
赤いニシキギの花も散り始め、残された細い枝に細かく区切られた空は、
どこか頼りない青さで白い雲を胸に抱えていた。
ヤツデの大きな葉は黄色味を帯びてアスファルトを彩り、
かすかな風が吹く度にかさこそと小さな音を立てながら踊っている。
寒気と暖気が交互に入れ替わり、
いよいよ本格的な冬の到来を感じさせるこの時期に、
星登は体調を崩して寝込んでしまっていた。
「・・・はい、熱が下がらないため、緒方は本日休暇をいただきたく、
・・・はい、はい、ありがとうございます。
・・・はい、それでは失礼致します」
モバイルフォン機能をオフにし、ミクは星登に振り返る。
「いま会社に電話しましたから、今日はゆっくり休んでくださいね。
会社の人もじっくり静養して、元気になってから出勤してくださいと仰ってくださいましたよ」
「・・・ああ、ありがとう、ミク」
布団の中から覇気のない掠れた声で返事する。
体の節々が痛むのか、時折苦しげな呻き声を発する星登。
温水で絞ったタオルを使って星登の汗ばむ額を拭いながら、ミクは尋ねた。
「今朝は食欲ありますか? ヨーグルトならすぐ用意できますけど・・・」
「・・・ああ、それじゃあいただこうかな」
「はい、起き上がれそうですか?」
上半身を起こすことさえ辛そうな星登のために、ミクは背中に手を添えて、何とか半身を起こした。
背中を支える手から汗ばむ肌の感触がパジャマ越しに伝わってくる。
その湿り気がそのまま星登の容態の悪さを表しているような気がして、ミクの胸を冷たくかき乱した。
「・・・そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫だよ。
薬を飲んで、今日一日寝ていれば、きっと治るさ」
青白い顔に力ない笑顔を浮かべながら告げた。
そんなに深刻そうな表情をしていたのだろうかと、ミクは少々の恥じらいを伴って俯いてしまう。
しかしすぐに気を取り直し、
ミクは手に持ったスプーンにヨーグルトをひとさじだけ掬って、
星登に近づけた。
「はい星登さん、あーんしてください」
星登は粟喰ったように慌てふためく。
「い、いやいや、さすがに自分で食べられるよ」
「ダメです星登さん、体の節々が痛むって仰ってたじゃないですか」
「・・・た、確かにそうだけど・・・」
「病気のときくらい、無理はなさらないでください。はい、あーん」
有無を言わせずスプーンを再度近づけるミク。
いよいよ星登は根負けして、おずおずとスプーンを口に含んだ。
口中でヨーグルトを転がし、飲み下す。
「美味しいですか?」
「・・・うん、美味しい」
「それは良かったです」
安心したようにニコリと微笑むミク。
「もっと食べますか?」
「・・・ありがとう。・・・もう少し貰えるかな?」
「ええ、まだまだありますからね。はい、あーん」
二度、三度とヨーグルトを口にしていくうちに気恥ずかしさが緩み始めたのか、
星登は抵抗なくスプーンを口中に受け入れていく。
そして皿のヨーグルトが尽きたとき。
「もっと食べますか? 食欲が出てきたようでしたら、ヨーグルトの他にも用意しますけど」
「・・・いや、もう充分だよ。ごちそうさま」
「そうですか、お粗末様でした」
薬を飲ませてからミクは星登の背中に手を回す。
「それじゃあ横になってください。
支えてますから、力を抜いて大丈夫ですよ」
ミクに抱きかかえられるように布団に倒れる星登。
その間にも全身を軋むような痛みが襲うのか、星登の口から耐えるような低い呻き声が漏れ出た。
「・・・ありがとう、ミク」
掠れる声を何とか絞り出す。
「悪いけど、今日一日はこうして休ませてもらうよ」
「ええ、そうなさってください。病人は休むことがお仕事ですからね」
星登の顔に朝日がかからぬよう調整しながらカーテンを引く。
目をつぶる星登の表情が、それで少しばかり和らいだように見えた。
次いでヨーグルトの皿を片付けようと立ち上がりかけたところで。
「・・・ぁ、」
ともすれば空気の中に溶けいるほどの弱々しい声を漏らす星登。
ミクがその声に気がついたのは、朝の慌ただしさからかけはなされ、
風のさざめきすら届かぬ、暖かな静寂に満たされた部屋にいたからこそだ。
「どうかなさいましたか、星登さん?」
再び腰を下ろすミク。
しかし星登からの返答はない。
だがミクは気づいていた。
先ほどのか弱い掠れ声は、確かに星登が何かを望んで声をかけたのだということを。
そしてその繊細な素懐を口にすべきか否かを悩んでいることを。
唇は引き結ばれ瞼も閉じられていたが、その青白い表情の陰には逡巡のそれがチラリと垣間見えた。
そしてたっぷり五分ほど過ぎてから、ミクは我が子を愛おしむような慈愛の声音でそっと囁きかける。
「・・・私は、ここにいますよ」
ミクの一言に、星登は。
「・・・・・・ありがとう・・・・・・」
それだけを口にした。ただ、それだけを。
星登はただ、ミクに自分の傍にいてほしかっただけなのだ。
皿洗いのために台所になど行かず、ただただ己の傍らに『居て』ほしい、ただそれだけだった。
病気の折には、とかく人は弱気に陥ってしまう。
世界中にただ一人自分だけが取り残されたような錯覚に襲われ、
甚大な自己憐憫に心を苛まれ、刺すような寂しさだけが体の中でグルグルと渦を巻く。
大丈夫ですよ、ここにいますよ、と囁きかけながら、額の汗を拭ってやる。
星登の喉から零れる吐息は、心地よさからか、安寧の感情からか。
程なくして星登の表情から苦悶のそれが薄れ、また吐き出される呻きも規則正しい吐息へ変化した。
先ほど飲んだ薬が効いたのか、眠ってしまったようだ。
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風はいよいよ乾いた冷たさを身に纏わせ、
肌を焼くような夏の暑さなど思い出すことが難しくなってきた頃。
赤いニシキギの花も散り始め、残された細い枝に細かく区切られた空は、
どこか頼りない青さで白い雲を胸に抱えていた。
ヤツデの大きな葉は黄色味を帯びてアスファルトを彩り、
かすかな風が吹く度にかさこそと小さな音を立てながら踊っている。
寒気と暖気が交互に入れ替わり、
いよいよ本格的な冬の到来を感じさせるこの時期に、
星登は体調を崩して寝込んでしまっていた。
「・・・はい、熱が下がらないため、緒方は本日休暇をいただきたく、
・・・はい、はい、ありがとうございます。
・・・はい、それでは失礼致します」
モバイルフォン機能をオフにし、ミクは星登に振り返る。
「いま会社に電話しましたから、今日はゆっくり休んでくださいね。
会社の人もじっくり静養して、元気になってから出勤してくださいと仰ってくださいましたよ」
「・・・ああ、ありがとう、ミク」
布団の中から覇気のない掠れた声で返事する。
体の節々が痛むのか、時折苦しげな呻き声を発する星登。
温水で絞ったタオルを使って星登の汗ばむ額を拭いながら、ミクは尋ねた。
「今朝は食欲ありますか? ヨーグルトならすぐ用意できますけど・・・」
「・・・ああ、それじゃあいただこうかな」
「はい、起き上がれそうですか?」
上半身を起こすことさえ辛そうな星登のために、ミクは背中に手を添えて、何とか半身を起こした。
背中を支える手から汗ばむ肌の感触がパジャマ越しに伝わってくる。
その湿り気がそのまま星登の容態の悪さを表しているような気がして、ミクの胸を冷たくかき乱した。
「・・・そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫だよ。
薬を飲んで、今日一日寝ていれば、きっと治るさ」
青白い顔に力ない笑顔を浮かべながら告げた。
そんなに深刻そうな表情をしていたのだろうかと、ミクは少々の恥じらいを伴って俯いてしまう。
しかしすぐに気を取り直し、
ミクは手に持ったスプーンにヨーグルトをひとさじだけ掬って、
星登に近づけた。
「はい星登さん、あーんしてください」
星登は粟喰ったように慌てふためく。
「い、いやいや、さすがに自分で食べられるよ」
「ダメです星登さん、体の節々が痛むって仰ってたじゃないですか」
「・・・た、確かにそうだけど・・・」
「病気のときくらい、無理はなさらないでください。はい、あーん」
有無を言わせずスプーンを再度近づけるミク。
いよいよ星登は根負けして、おずおずとスプーンを口に含んだ。
口中でヨーグルトを転がし、飲み下す。
「美味しいですか?」
「・・・うん、美味しい」
「それは良かったです」
安心したようにニコリと微笑むミク。
「もっと食べますか?」
「・・・ありがとう。・・・もう少し貰えるかな?」
「ええ、まだまだありますからね。はい、あーん」
二度、三度とヨーグルトを口にしていくうちに気恥ずかしさが緩み始めたのか、
星登は抵抗なくスプーンを口中に受け入れていく。
そして皿のヨーグルトが尽きたとき。
「もっと食べますか? 食欲が出てきたようでしたら、ヨーグルトの他にも用意しますけど」
「・・・いや、もう充分だよ。ごちそうさま」
「そうですか、お粗末様でした」
薬を飲ませてからミクは星登の背中に手を回す。
「それじゃあ横になってください。
支えてますから、力を抜いて大丈夫ですよ」
ミクに抱きかかえられるように布団に倒れる星登。
その間にも全身を軋むような痛みが襲うのか、星登の口から耐えるような低い呻き声が漏れ出た。
「・・・ありがとう、ミク」
掠れる声を何とか絞り出す。
「悪いけど、今日一日はこうして休ませてもらうよ」
「ええ、そうなさってください。病人は休むことがお仕事ですからね」
星登の顔に朝日がかからぬよう調整しながらカーテンを引く。
目をつぶる星登の表情が、それで少しばかり和らいだように見えた。
次いでヨーグルトの皿を片付けようと立ち上がりかけたところで。
「・・・ぁ、」
ともすれば空気の中に溶けいるほどの弱々しい声を漏らす星登。
ミクがその声に気がついたのは、朝の慌ただしさからかけはなされ、
風のさざめきすら届かぬ、暖かな静寂に満たされた部屋にいたからこそだ。
「どうかなさいましたか、星登さん?」
再び腰を下ろすミク。
しかし星登からの返答はない。
だがミクは気づいていた。
先ほどのか弱い掠れ声は、確かに星登が何かを望んで声をかけたのだということを。
そしてその繊細な素懐を口にすべきか否かを悩んでいることを。
唇は引き結ばれ瞼も閉じられていたが、その青白い表情の陰には逡巡のそれがチラリと垣間見えた。
そしてたっぷり五分ほど過ぎてから、ミクは我が子を愛おしむような慈愛の声音でそっと囁きかける。
「・・・私は、ここにいますよ」
ミクの一言に、星登は。
「・・・・・・ありがとう・・・・・・」
それだけを口にした。ただ、それだけを。
星登はただ、ミクに自分の傍にいてほしかっただけなのだ。
皿洗いのために台所になど行かず、ただただ己の傍らに『居て』ほしい、ただそれだけだった。
病気の折には、とかく人は弱気に陥ってしまう。
世界中にただ一人自分だけが取り残されたような錯覚に襲われ、
甚大な自己憐憫に心を苛まれ、刺すような寂しさだけが体の中でグルグルと渦を巻く。
大丈夫ですよ、ここにいますよ、と囁きかけながら、額の汗を拭ってやる。
星登の喉から零れる吐息は、心地よさからか、安寧の感情からか。
程なくして星登の表情から苦悶のそれが薄れ、また吐き出される呻きも規則正しい吐息へ変化した。
先ほど飲んだ薬が効いたのか、眠ってしまったようだ。
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