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梨花SS「羽入」

ひぐらしのなく頃にSS
古手梨花編
「羽入」


第一章 夢想

空に浮かぶは、真円の蒼月。
視線を足下に移せば、足跡ひとつない雪景色が蒼い月の光を朧に映し、
縁側に腰掛ける女性の黒髪に、月の粒子が絡んで踊る。

月を見上げる女性の口から、
白い空気がホワリ、ホワリと浮かんでは消える。
時刻は10時を過ぎ、夜の空気が家屋の隅々まで浸透しきった頃、
静寂を破るものは、かすかな木々のささめきだけだった。
蒼月を見上げる彼女の姿は、
月光の恵みを浴びながら、肌の白さと髪の黒さをより一層際立たせている。


女性の名は、古手梨花。

あの『惨劇』から十余年。
あの惨劇も「過去のもの」と呼ぶに相応しいだけの時間が過ぎた。
あれから梨花は結婚し、子供も授かり、
今では、沙都子と生活を共にしたプレハブ小屋を引き払って、
本家である古手の自宅で夫・娘と共に暮らしている。
沙都子と一緒に暮らしていた頃、とまではいかないものの、
それでも一時期に比べれば、この家は相当賑やかになっていた。
しかし今、夫は雛見沢村の会合(という名の酒宴)に参加しており、
1歳になったばかりの娘は隣の部屋で眠っているため、
縁側で月光浴を楽しんでいるのは梨花だけだった。


月夜の静寂の中で、時だけが深々と刻み続ける。
月の観賞にも飽きた彼女は、ふと思い立ち、
素足のまま、中庭にできた小さな雪原へ足を踏み入れてみた。


冷たい。


足先の感覚が冷たさから痛さへ変わる前に、
彼女は雪から足を外し、また元の場所へ腰掛けるのだった。


ふぅ、と、ひとつ大きなため息をつく。
何をやっているのだろう、と自嘲気味に、わざと声に出して呟いた。
いや、何をやっているのかなんていうのは、自分が一番よくわかっている。
その行動理由も。


こんな雪の夜には、どうしてもあの日のことを思い出してしまう。
万力で締め付けられるような悲しみと、
胸を引き裂きたくなるような切なさを。
その苦痛にも似た悲哀から逃げるように、
あるいは苦しみを紛らわせるために、
彼女は稀に自傷行為にも似た行動を起こしてしまうのだ。


例えば、雪に素足をさらしてみたり。
あるいは、真夏の炎天下で日向ぼっこをしてみたり。


そうした自傷行為の後には、決まって汚泥のような自己嫌悪に陥り、
そして無性にワインを傾けたくなるのが常だった。


今宵もその常にならい、彼女はワインを傾けたい衝動に駆られる。
何か辛いこと、現実から逃避したいことがあれば、
彼女はいつもアルコールに逃げてきた。
一人で窓辺にたたずみ、人生を悟ったような面持ちで、
何もできない、何をしても変わりはしないと不貞腐れていたあの頃。
思えば彼女がアルコールに逃げ始めたのは、
精神年齢で30を過ぎた頃からだったろうか。
肉体年齢で言えば、10にも満たない頃から続けていることになる。


悪癖である。


自分でもわかっている。
だからこそ、彼女は瞼をギュッと固く閉じて、その衝動をやり過ごす。
しかし、それで衝動を抑えることはできても、
あの日の記憶の残滓までは消し去れない。


そう、あの日。


梨花がまだ婚約を決める前の、3年前のあの日。
その年初めての雪が降った、あの日。
羽入と永訣した、あの日の記憶までは。



第二章 惨儀


「贄(にえ)のモノは、此処へ」


事前の儀式を終えた村の長老が、重々しく、しかし朗々と告げる。
その言葉を合図に私は、一歩、また一歩と、
贄の磔台へと歩を進めるのだ。
今年初めての雪がちらつく中、ひらひらと舞う雪の一欠けらが、
私の頬に触れては消える。


村人の視線が次々に刺さる。

死ね。
早く死ね。
一刻も早く死ね。
お前さえ死ねば、村の災厄も、余所者との対立も、
全て解決されるのだ。
お前の身さえ、人でないお前さえ犠牲になれば、
全ての村人が救われるのだ。
だから。

村のために、死ね。


呪詛(じゅそ)と怨嗟(えんさ)に塗れた視線が、
白装束一枚を隔てた素肌に刺さる。
草鞋(わらじ)を履くことすら許されぬこの身に、
己の死そのものである磔台への道のりは
あまりにも遠く、そしてあまりにも無慈悲であった。

ジャリ、ジャリ、と砂を食む素足に痛みが走る。
初雪がヒラヒラと舞い散る中、白装束に守られず晒された素肌へ冷気は容赦なく襲い掛かり、それはもはや痛みをも伴っていた。
しかし今やその痛みさえも、己に生を感じさせてくれる優しき恵みのように感じられた。
いつもは見慣れたこの土も、いつもは気に留めぬこの草も、
当たり前に触れてきたこの風でさえも、羽入にとっては全てが愛しき世界のカケラだった。

思えば。
これまでの自分の生に、どれほどの意味があったのであろう。

己の死が確定した日の夜。
私はそのような自問を紡がずにはいられなかった。

もはや磔台は圧倒的な存在感でもって、羽入を縛り付けんと着座して待っている。
自身のまな板となる磔台を前に、羽入は抗う術なく、故に抗うことなく、淡々と磔台へ歩を進める。


もうじき、自分はこの磔台にくくり付けられたまま、
黄泉へ通ずると伝えられる、あの底なし沼へ沈められる。
腹を割き、腸を引きずり出し、沢へ流し、
そして最後に沼へ沈められる。


このような残酷な儀式の贄に、なぜ自分が選ばれてしまったのか。
そんなこと、疑問を挟む余地も無い。
私の、この醜き「角」のためだ。
側頭部に根を生やし、曲線を描いて前頭部へと伸びる、2本の角。
それは災厄の象徴として、誰もが己の存在を忌み嫌った。

隣人が、親戚が、村人から迫害されている余所者が、
そして父と母までもが、
私を「鬼の子」として憎み、蔑み、その存在を許さなかった。
私には、生まれたときから安息の場所など許されなかった。
気の置けぬ仲間も、無償の愛も、何も与えられず、ただ村の中で


バケモノ


と罵られながら生きることしか許されなかった。


しかしそんな羽入が、生の中で得られた、たった一つの神からの授かり物。

それが、息子だった。

父親はいない。
正確に言えば、誰が父親かわからない。

バケモノと蔑まれる自分が「人」と同じ扱いを受けることは少なく、
村の男たちに慰み者とされることも少なくなかった。
村中から厭われ、男たちからは
都合のいいときに欲望の捌け口とされる、屈辱の日々。
そうして生まれたのが、息子だった。

出生は、確かに幸せなものとは言えないだろう。
村中から「バケモノ」と罵られる女から生まれた、私生児。
しかし幸いにも、息子に醜い角は生えていなかった。

私は、息子に惜しみない愛情を注いだ。
およそ与えられるだけの愛情を、余すことなく注いだ。
親の愛情すら受けられなかった自分のような、
不憫な思いだけはさせないように。
例え村中から罵られようとも、誇り高く生きていけるように。


そして息子が成人の儀を迎えようとしていた年に持ち上がってきたのが、
「腸流しの儀」である。
それは村内で起こる様々な問題――すなわち隣人とのいさかいであったり、
疑心であったり、余所者とのいざこざであったり――を、
「人が生きていく上で避けられない罪」
と位置づけ、その罪を生贄に全て押し付け、そして処刑し祓うことで
村人全員の罪を祓い、赦し、購おうという儀式である。


このような儀式を設けることで、村の治安は安定すると思われた。
隣人への疑心も、親類への不孝も、果ては作物の凶作に至るまでも、
全ての災厄と罪を生贄に押し付けることで、
村人たちの生活が潤滑に動いていくと考えられた。
しかしそのような強大な罪は、人一人が背負いきれるものではない。
そこで不孝にも白羽の矢を立てられたのが、羽入であった。

角を生やす人間など、この世にいない。
なれば羽入は、人ではない。
人ではないのならば、そのような強大な罪を背負って死に逝くのも、また是である。


「腸流しの儀」の贄として処刑される人物が羽入である、と決定した日の夜。
息子は嘆き、咽(むせ)び、この世の不条理を吐露(とろ)した。
母が村の生贄として命を捧げなければならぬ不条理を。
その母に引導を渡す役目を、息子に仰せ付けた村人たちの非情さを。


「親を葬るは子の務めでございます。
 しかし子が親を殺し葬るなど、聞いたこともございませぬ!」

息子は怒りに総身を震わせ、悲しみに涙し、
ただただ不条理を嘆くのだった。

「なぜ人の罪が母上ひとりに背負わされなければなりませぬか!
 人の罪は、人の罪。母上の罪ではありませぬ!」

「聞きなさい、我が子よ。
 人は罪に溺れながら生きていく。
 それを誰かに押し付けねば生きていけぬ。
 しかし人に押し付ければ、そこで疑心が生まれ、また罪が生まれる。
 なればこそ、押し付けられる存在は人であってはならぬ。
 我が罪を背負い、人がそれを祓ってこそ、罪が浄化されるのだ」

詭弁である。
それは己の言葉とは思えぬほどに、己が紡ぎだした結論とは思えぬほどに、余りにも現実感を伴わなかった。
それも当然だ。
なぜ、私が皆のために死なねばならぬのだ。
なぜ、私を迫害した皆のために犠牲にならねばならぬのだ。

疑問の言葉は、いくらでも紡ぎだせる。
嘆きの嗚咽は、いくらでも生み出せる。
だがいくら咽び泣き喚いたとしても、贄の決定が覆るわけではない。
いくら怒り叫んだとしても、私の死は避けられない。

ならば、せめて。
己の死に何かしらの意味を持たせたい。
己の生が無駄ではなかったと思いたい。

そう想ったから、そう願ったから。
例え不条理だと理解していても、詭弁に己の人生の意味を重ね合わせた。

息子は、それを理解できぬと言う。
息子は、それを受け入れられぬと言う。
母が、私が、己の人生に僅かに見出した光明を、受け入れられぬと言う。

息子よ。
頼む。聞き分けてくれ。
私は、ただ己の生に意味を持たせたかっただけなのだ。
誰からも愛されなかったこの生に、
誰からも振り返られなかったこの生に、
ほんの僅かでも意味を見出したかったのだ。

だけど、息子は。

「わかりませぬ!わかりませぬ母上!」

なぜだ。
なぜ聞き分けてくれぬ。
明日にも常世へ旅立とうという母の想いを、なぜ理解してくれぬのだ。

「・・・確かに母上には、隠せぬ角がございます」

だが、息子の言葉は。
私の願いを聞き入れない息子の言葉は。
不条理を嘆く息子の言葉は。
胸の底に沈む激情を吐露する息子の言葉は。

「しかし、角があるだけで人ではないと申されますか!
 人であっても、角があればそうではないと申されますか!
 母上に角があろうとも、私にとっては、
 母上は人以外の何者でもありませぬ!」

瞬間、涙が一筋、頬を伝った。
己の死を宣告されたときにすら流れなかった涙が、息子の愛言葉(めことば)によって、ようやく流すことが出来た。
その涙は、凍てついた心を氷解していく。
その言葉は、理不尽な世界に意固地になった心を、ゆっくりと温めてくれる。
そこで、私はようやく見出すことが出来たのだ。
この世界の、私の生の意味を。


私はギュッと目を閉じ、瞳に溜まった涙を流し尽くすと、ゆっくりと瞼を開いた。
そこには、灰色の空が広がっている。
磔台に括り付けられ、四肢をも縛られ、白装束すら奪われたこの身。
この人生と同様、自由を根こそぎ奪われた私の元に、ゆっくりと近づく人影がある。

息子だ。

清廉を示す白装束に身を包み、綺麗に結われた髪の毛を揺らし、壮麗さを発しながら歩みくる。
その手には、息子の装束には余りにも不相応な、無骨でおぞましい桑が握られている。

息子は、涙を流している。
ほろほろ、ほろほろと、涙を流している。
親殺しという業を背負わんと、覚悟を両肩に背負いながら。
ただ、涙を流している。

息子よ。
我が最愛の息子よ。
泣いてくれるな。
そなたの母は、あの言葉でどれだけ救われたかわからぬ。
そなたがあの夜に叫んでくれた愛言葉。
それがどれだけ母の心を癒してくれたかわからぬ。
そなただけが、私を人だと言ってくれる。
たとえ村中からバケモノと罵られようとも、
そなただけが私を人だと言ってくれる。

今まさに磔台に括り付けられ、
我が人生に幕を下ろそうというこの瞬間に至るまで、
そなただけが私を人だと言ってくれたのだ。

我が人生。
踏みつけられ、詰(なじ)られ、鬼としてしか生きられなかった、我が人生。
虐げられ続けたこの人生に、意味を見出すならば。

それは、そなたのためにあったのだ。
そなたを人として生み、そなたをここまで立派に成長させたこと。
それこそが我が人生だったのだ。


ヒラリ、ヒラリと雪が舞い散る。
灰色の空からもたらされる雪たちは、
一糸纏わぬこの身に触れると、儚く溶けて、消えていく。


ああ、息子よ。
我が最愛の息子よ。
さぁ、その桑で母の腹を割きなさい。
母の腸を引きずり出し、沢へ流し、この身を沼へ沈めなさい。
この舞い散る雪が積もらぬうちに。


ああ、息子よ。
我が最愛の息子よ。
この身に未練などもはやないが、
ただひとつ、そなただけが心残りでならぬのだ。
この腕は、もうそなたを抱きしめられぬ。
この指は、そなたの涙を拭うこともできぬ。
最後にそなたへ何も残すことの出来ぬこの母の不孝を、
どうか赦しておくれ。

息子が、桑を振り上げる。
涙で顔をボロボロにしながら。
心の苦痛に身を震わせながら。
桑を振り下ろさなければこの惨儀を終わらせることは叶わぬのに、
ただ上段に振り上げた状態で、固まっている。

ああ、息子よ。
我が最愛の息子よ。
そなたは何も気に病むことはない。
例えこの身が呪詛と罪悪に塗れ、沼に沈もうとも、
そなたが母と慕ってくれたこの魂は、
この先永劫、そなたとその子孫たちを見守っていこうではないか。
この身は鬼として生を受けたが、
この魂はそなたたちを災厄から守る英霊となろう。

だから、そなたの心を少しでも救うことができるのであれば。
私は、そなたにこの言葉を贈ろう。


「ありがとう、我が息子よ・・・・・・」


そして、桑が振り下ろされる。
息子の絶叫と共に、桑が振り下ろされる。
そうだ。
それで良いのだ。
そなたはこの村で、人として生きていけばよい。
母の叶えられなかった当たり前の人生を、そなたは歩んでいけば良いのだ。

だから、せめて。
これだけは祈りたい。
これだけは神に聞き届けていただきたい。
これより英霊となろうこの身が、いまさら神頼みとは締まらないが、
それでも神が聞き入れてくださるならば。
どうか、どうかひとつだけ。


息子のこれからの人生が、健やかでありますように・・・・・・。


第三章 永訣


ヒュッ、とひとつ息を吸って、梨花は目を覚ました。
フゥフゥと息を荒げ、顔を涙で濡らし、
寝起きざまで混乱する脳を抑え付け、現状を把握しようとする。

「・・・・・・夢?」

言葉に出し、ひとつ大きな息を吐いて、ようやく落ち着いた。

羽入の生前の頃の夢を見るのは、久しぶりだった。
羽入は梨花の巫力を媒体として人間界に受肉しているため、
羽入の精神が梨花のそれに同調してしまうことは珍しくなかったが、
それでもこれほど仔細でリアルな夢を見るのは初めてのことだった。

羽入の身に、何か起ころうとしているのだろうか。

根拠は無い。
しかしこれまで経験したことのない体験を通じると、
どうしても弱気になってしまう。
それに羽入の最近の体調を考えれば、
梨花がそのように危惧してしまうことは無理からぬことであった。

傍らの目覚まし時計を確認してみると、時刻は午前2時。
ここまで思考を落ち着かせてから、体中が独特の不快感に包まれていることにようやく気づいた。
確かめてみると彼女の体は汗だらけで、顔は涙に濡れている。
枕も自身の汗と涙でぐっしょりと濡れていて、
とてもではないがこのまま寝なおす気になれなかった。

シャワーでも浴びてこよう。

隣で寝ている羽入を起こさぬようゆっくりと上体を起こしたところで、
梨花は初めて気がついた。

羽入が、いない。

喉が渇いて台所にでも行ったのだろうか。
だったら私を起こせば良いのに。
これでは何のために同じ部屋で寝ているのか、わからないではないか。
自分ひとりでは歩くことすらままならない体なのに、
いつでも羽入は無理ばかりして、私に心配をかける。
ストールを肩に羽織り、台所へ様子を見に行こうと襖を開けたとき。

そこに、羽入がいた。

探すまでもなかった。
羽入は縁側に腰掛け、夜の闇の中に朧に浮かぶ中庭の木々を眺めていた。


「ここにいたの羽入?部屋にいないから心配したわよ」


言いながら、梨花は自分の肩にかけていたストールを、
羽入の肩にかけてやる。
今夜は冷える。いつまでも縁側にいては、体を壊してしまう。
寝室に戻るように羽入を促そうとしたとき、
そっと、羽入が呟いた。


「・・・・・・雪・・・」

「・・・え?」

「・・・・・・雪が、降ってきたのです・・・・・・」


見てみれば、ヒラヒラ、ヒラヒラと、頼りなげに雪が舞っていた。
それは手に取るまでもなく、
地面に触れるだけでその身を消してしまうほどに儚いものだった。

雛見沢の夏は短い。
綿流し祭が終わったかと思えば、あっという間に秋が来る。
そして秋の風情を楽しむ間もなく、冬の訪れを知るのだ。
この雪は、今年の秋が既に終わってしまったことを告げる、
儚い冬の報せと同義だった。


二人は何をするでもなく、舞いちらつく雪をボンヤリと眺める。
梨花は羽入の容態を気にしていたが、羽入がここを動きたがらないので、
梨花も隣に腰掛けることにした。

ここ数年、羽入の容態は決して良いとは言えない。
いや、悪化の一途を辿っていると言って良いだろう。
最初は何てことの無い、ただの風邪のように見受けられた。
体のダルさと食欲のなさを訴えてはいたが、
それでも数日ほど休みさえすれば
元の溌剌とした姿を見せてくれると、誰もが信じていた。

しかしその期待は裏切られる。
羽入が寝込んでから3日が過ぎ、1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎても、
羽入の容態が良くなることはなかった。
いや、むしろ容態は悪化していき、
歩くことすらままならぬ状態にまで陥った。

原因はわかっていた。
羽入は、人間界での現界ができぬほどに
その力を弱化してしまっていたのだ。

本来英霊であるはずの羽入が、普通の人間にも見える形で現界するには、
相応の巫力と、受肉するための媒体が必要となる。
言葉にしてしまえば簡単だが、
「受肉」という奇跡は途方も無い大巫力を必要とし、
しかも現界する時間に比例して、消費する巫力も甚大となるのだ。

しかしその大奇跡を、羽入と梨花は実現してみせた。
1000年間「オヤシロさま」という英霊として培ってきた羽入自身の神通力と
8代目の巫女である梨花自身の巫力、
そして雛見沢に伝承される「オヤシロさま」への「想い」の力を利用して、
ようやく羽入は「受肉」と「現界」という奇跡を越えてみせたのだ。


しかし、その奇跡にも限界がきてしまった。
いかな羽入の莫大な神通力をもってしても、
梨花の恐るべき巫力を注いだとしても、
英霊である羽入を十数年も限界させるには、あまりにも微力であった。

今こうして呼吸をしている間にも、
羽入と梨花の巫力は失われ続けている。
そして羽入の神通力が底をついたとき、
彼女に訪れるのは、紛うことなき『死』。
単に「人間界に現界できなくなる」わけではない。
現界のために羽入が消費している神通力とは、
英霊として人々を守る際にも、
いや、もっと単純に言えば、「英霊」として存在するだけで必要とされる力なのだ。

その神通力を根こそぎ失ってしまうということは、
それは「羽入」という存在の消去、すなわち「死」を意味する。


ゆらり、ゆらりと雪が舞い落ちる。
厚い雲に覆われて見えないが、きっと雲の向こうには
真円の月が顔を覗かせているに違いない。
この雪が積もることはないだろう。
雪景色に満月が加われば、それはそれは美しい情景に違いないのに。
梨花は弱々しい雪を眺めながら、そんなことをボンヤリと考えていた。

「あの日も、こんな雪の日でした・・・・・・」

唐突に紡がれた、その言葉。
それはきっと、羽入が人としての生を終えた、
あの無残な日のことを指しているのだろう。

「ええ、知っているわ・・・」

視線を手元に移しながら、そう告げる。
あの村中からの敵意と憎悪。
最愛の息子の手にかかるという悲哀。
それでもなお、村の安寧と息子の安否を気遣った、羽入の優しさ。
彼女の人生は、あまりにも報われなかった。
報われず、悼まれず、あまりにも幸薄い人生だった。

「さっきね、羽入の夢を見ていたの。
 あなたが腸流しの儀に捧げられてしまう、あの日の夢を」

羽入に視線を向けず、ただ己の手元を見つめたまま、梨花は言葉を紡ぐ。

「・・・そう、ですか」

羽入はそれだけ呟くと、また初雪を愛で始めた。

ヒラヒラ、ヒラヒラ。

地面がほんのり白で染まり始めても、二人の沈黙は終わらない。
その夜は風が無かったため比較的暖かい夜だと言えたが、
それでも雪が降るほどの気温なのだ。
長時間縁側に座っていれば、当然体にはよくない。
羽入がどのような心持で深夜の雪を観賞していたのかわからないが、
そろそろ寝室に戻るべきだと、梨花は思った。

そんな、沈黙を破ろうとした梨花の動きを感じたのだろうか。
羽入は梨花の言葉を遮るように、
しかし弱々しい力で、呟いた。


「・・・私の命は、今夜で終わりなのです」


一瞬、理解できなかった。

突如言い渡された終焉を告げる言葉に、
梨花の思考は混乱を通り越して、真っ白に止まっていた。

・・・今夜で、終わり?

心の中で反芻する。
確かに羽入の容態は、良好とは言えなかった。
羽入の神通力も一時期に比べれば見る影も無く弱化していたし、
自分の巫力に至っては言うまでも無い。
いつかは限界がきて、羽入に死期が訪れることも覚悟していた。

でも、それが、今夜だなんて。

何も準備できていない。何も覚悟ができていない。
この期に及んで何も覚悟ができていない自分に、苛立ちさえ覚えた。
いや、本当に苛立ちを覚えている対象は、そんなことではない。
梨花が怒りを覚えているのは、これほどの末期に至ってなお、
羽入の危機を感知できない己の未熟さだ。

羽入は彼女自身の神通力と、梨花自身の巫力で生きている。
ならば、自分の巫力の残量を見極めることで
羽入の寿命を察知することも出来たのではないか。
それなのに、梨花には羽入の残りの寿命がわからない。
それは、梨花が巫力に関する修行を怠ってきたから。

そのツケが、今支払われようとしている。
梨花が修行を怠ったことで、
羽入は今日まで、たった一人で忍び寄る『死』に対して闘ってきた。
梨花が修行を怠ったことで、
羽入は孤独な闘いを強いられてきた。
隣に梨花がいながら、羽入はずっと孤独に苛まれてきたはずなのだ。

自分への怒り。自分への苛立ち。
見通しの甘さと楽観が招いた、羽入の孤独。

羽入の最期が今夜だとわかっていれば、
もっと早くその兆しに気づいてさえいれば、
色々な思い出をを羽入と共有できたのに。
羽入の孤独を癒すために色々なことができたはずなのに。


溢れそうになる涙を、グッと堪える。
震えそうになる声を、抑え付ける。
そしてどうにか、ようやく一言だけ声を絞り出すことができた。

「ごめんね・・・何もしてあげられなくて・・・・・・」

それでも羽入は、柔らかい微笑を浮かべながら、
そっと包み込むように言葉を紡いでくれた。

「何を言っているのですか梨花。
 私は、梨花からたくさんたくさん、思い出をもらいましたよ」

その微笑に、羽入のいじらしさに、
胸が万力に締め付けられたかのように苦しくなる。

死ぬのは、あなたなのに。
どうして私の胸中まで気遣うことができるの?

羽入は、記憶のカケラを拾い集めるかのように、
ゆっくりと語りかけた。

「みんなで、スキーに行きましたよね」
「・・・そうね、でも雪山で部活は、二度とやりたくないわ」

羽入はクスリと笑う。あのときの惨状を思い出したらしい。

「みんなで、温泉にも行きましたよね」
「・・・そうね、魅音が公由たちのお酒を勝手に飲んで、こっぴどく怒られたわ」

「みんなで、東京の遊園地にも行ったです」
「・・・そうね、あのときに買った大きなぬいぐるみ、今でも大事にしてるものね?」

思い出話は尽きない。
羽入と共に暮らした、10年余りの思い出。
いや、共に過ごした年月で言えば、100年以上の思い出。
それだけの思い出を、今この場で語りつくすことなど到底無理だった。
しかし、時間とは残酷だ。
いかに語り足りなかろうと、羽入に残された時間は、
少しずつ、しかし確実に削られていく。

「本当に、本当に楽しい生活だったのです・・・・・・」

そう語る羽入の表情は、しかしどこか儚げだった。

「色々なところへ遊びに行きました。
 本当に沢山の楽しい思い出ができました。
 でもそれは、梨花たちがいてくれたからこそ、
 充実した日々となったのですよ。
 梨花、圭一、沙都子、悟史、レナ、魅音。
 あなたたちがいてくれたからこそ、私は・・・・・・」


そこで一旦言葉を切り、想いを深く噛み締めるように、言葉を紡ぐ。


「私は、この角を忘れることができたのです」


ドクン、と心臓がひとつ大きく鳴った。

あの夢の内容が鮮明に思い出される。
村人から注がれる、憎悪の視線。
それゆえに送らざるをえなかった、彼女の幸薄い人生。
それゆえに受け入れざるを得なかった、彼女の非業の死。

もし彼女に角さえなければ、どれほど違う人生を歩むことができたことだろう。
親の寵愛を受け、隣人と親愛を築き、愛する夫と共に子宝に恵まれ、
腸流しの儀など彼女の人生に何の影響も及ぼさず、
幸せな天寿を全うしたに違いないのだ。

全ては、その角。
その角こそが原点であり、元凶であり、羽入の人生を狂わせた。

「私は生前、ずっとこの角が原因でいじめられ続けました。
 ううん、それはいじめなんて易しいものじゃなかったのです。
 迫害され、暴行され、私の人格なんて無きに等しく、
 皆から踏みにじられてきました。
 でも・・・・・・、でも、みんなは違いました」

いつの間にか羽入が紡ぎだす言葉は、涙に濡れていた。

「魅音はこの角を、個性的だと言ってくれた!
 レナはこの角を、可愛いと言ってくれた!
 みんな、みんなこの角を受け入れ、私を仲間に入れてくれた!
 それがどれほど嬉しかったか!どれほど私の心に安息をもたらしたか!
 かけがえのない喜びに共に笑い合い、納得できぬ理不尽に共に怒った!
 そんななんでもない共有が、私にとっては、代えがたい喜びだったのです・・・!」

梨花はたまらず、羽入を抱きしめた。
その悲しさを少しでも紛らわせたくて。
胸の中で、羽入は子供のように泣きじゃくる。
梨花・・・、梨花・・・、とその名を呟きながら。
そんな羽入を抱きしめながら、いつの間にか、梨花も涙を流していた。

羽入は、この人生がとても幸せなものだったと言ってくれた。
それがたまらなく嬉しい。
でも、その人生も今まさに終わろうとしている。
それがたまらなく悔しい。
羽入の独白は、全てが梨花の心を抉った。
嬉しさと、悔しさと、悲しさ。
その他交々の感情が複雑に絡み合って、梨花の心を抉り続ける。


「・・・ねぇ、梨花」


嗚咽の間に挟まれる、短く弱々しい呼びかけ。


「・・・・・・私、私・・・」


そして紡がれる、羽入の唯一の本音。


「――――もっと、生きたかった・・・!」


梨花の胸の中から聞こえたその呟きは、まさに羽入の絶叫だった。


「私、まだ死にたくない・・・みんなと、もっと一緒にいたい・・・」


ああ、神よ。
無慈悲なる神よ。
なぜこれほどまでに、彼女に辛い試練をお与えになるのか。
隠せぬ角のために人間の輪に入れず、
村人たちの犠牲となるため残酷な死を遂げ、
1000年間にわたる孤独との戦いと、
悪鬼・鷹野の凶行により出口の見えぬループ世界を100年間さまよい、
その末にようやくたどり着いた、安息の日々。

羽入はこれだけ苦しんだ。羽入はこれだけ悲しんだ。
その見返りが、1000年以上にわたる苦行の見返りが、
たったの10年余りの人生だなんて、そんなのあんまりだ!


「私、こんなに・・・こんなにみんなから安らぎの日々をもらったのに・・・・・・」

羽入の独白は続く。

「私は、みんなに何もしてあげられなかった・・・・・・!
 詩音がL5を発症してしまったときも、
 レナが凶行に走ってしまったときも、
 圭一がみんなを信じられなくなってしまったときも、
 私はみんなに何もしてあげられなかった!
 これほど大切な仲間なのに、私は傍観者を決め付けて、
 何も、何も・・・・・・・・・ッ!」

それはもはや独白ではなく、羽入の魂からの絶叫となっていた。

「あの時だってそう!
 私は息子に、何もしてやれなかった!
 あの時代、ただ一人、私のことを人だと言ってくれた息子に、
 私は何もしてやれなかった!
 『鬼の子供』となじられることもあっただろうに、
 私はあの子に何もしてあげられなかった!」

それは、1000年前の記憶。
1000年経った今でも、あの悲しくも忌まわしい記憶は、
羽入の心を深く深く傷つけている。


そのとき、羽入の体がゆったりと光り始めた。
そしてそれらは光の粒となり、ひらひら、ひらひらと、
重力に逆らう雪のように空へと上っていく。
そう、まるで・・・羽入の細胞が、光の欠片となって天に帰っていくように。

「そろそろ・・・・・・お別れなのです・・・・・・」

私の胸から体を離して、呟くように告げた。
見れば、羽入の手はうっすらと半透明になりかけている。
あまりにも唐突に訪れた、別れのとき。
羽入は覚悟が決まったのか、
先ほどまでの取り乱しようが嘘のように落ち着き払った表情で、
ゆっくりと梨花に視線を向ける。

「・・・思い切り泣いたら、スッキリしたのですよ・・・・・・」

はにかみながら言う羽入。でもその瞳は、涙の跡を拭いきれていなかった。

もうすぐ、羽入が死んでしまう。文字通り、羽入が消えてしまう。
時間はない。
だからこそ、これだけは言わなくては!


「羽入!あなたはみんなに何もしてあげられなかったと言うわ!
 沙都子や圭一、レナに魅音、それに遠い過去の息子さんにも!
 誰も救えなかった、誰も救わなかったと、あなたは嘆いてた!
 でも・・・!」


梨花は羽入の手を握り、真っ向から羽入を見つめる。
そして大きく息を吸い、一字一句、大切に言葉を紡ぐのだ。


「でも、羽入は私を救ってくれたじゃない!」


瞬間、また胸をしめつけられ、もう流しつくしたと思った涙が
また溢れてきてしまう。


「初めてお父さんとお母さんが死んでしまった夜も、
 あなたはずっと私の傍にいてくれた!
 両親を失った喪失の夜も、あなたがいてくれたから私は耐えられた!
 巫力が落ちて、昭和56年以前に戻れなくなって、
 もうお父さんとお母さんを救えないと知ったあの絶望も、
 あなたがいてくれたから、私は乗り越えられた!
 あなたがいてくれたから、あの地獄のような100年を越えられたのよ!」


梨花の顔が、涙と鼻水で汚れている。
だが、それでも、
涙に塗れていようと、叫んだ勢いで唾を飛ばしてしまおうと、
それでもこの羽入への想いをどうにか伝えなければ、
梨花は自分でこの身を裂いてしまいそうだった。

羽入の下半身は、すでにおぼろげに輪郭を残すのみとなってしまった。
時間がない。


「羽入には本当に色々なことを教えてもらった!
 カレーの作り方も、お掃除のやり方も、明日の天気の占いも、おはじきの遊び方も、
 全部教えてくれたのは、羽入だった!
 お母さんよりも、沢山のことを教えてくれた!
 お母さんよりも、ずっと一緒に、傍にいてくれた!」

梨花と羽入を結ぶ絆は、親友とか、仲間とか、そういう類の言葉で表現できるものではなかった。
そう、二人を紡ぐ絆を表す言葉があるとすれば。


「羽入こそ、私にとっては・・・本当のお母さんなの・・・・・・!」


呟く梨花の瞳から、とめどなく涙が溢れる。
羽入の手を握り締め続ける、梨花の両手。
それは、消え入りそうな羽入の存在を、しっかりとその手で記憶しようとするかのようだった。

「だから、お願いよ・・・!
 お願いだから・・・いかないで、お母さん・・・・・・!」

ようやく紡ぎ出せた、その言葉。
ようやく形に出来た、その想い。
しかし無情にも、羽入の死期は変わらない。
光はさらにその光度を強め、
握る手の温もりも、消え入りそうなほどか弱かった。


「・・・・・・梨花・・・」


聞き逃してしまいそうなほどのか細い声で、羽入が囁いた。
スゥ、と一筋だけ涙を零し、見るもの全てを包み込むような、
柔らかい微笑を浮かべて。


「ありがとう、私の娘・・・・・・」


そして、羽入は消えた。
光の粒にその身を変え、ヒラヒラと舞いながら、天に帰っていった。
梨花の目の前に残されたのは、羽入が着ていた寝巻きと、
梨花がその肩にかけてあげた、ストールのみ。
寝巻きに残された温もりも、その手に残った感触も、
いまだ止まぬ初雪たちに容赦なく奪われ、
冷たい風の中に晒されるのみだった。

「羽入・・・!羽入・・・!」

呼んでも、もう返事は返ってこない。
ストールを抱きしめても、そこに羽入の温もりは残っていない。
ただ羽入の痕跡を示すのは、
締め付けられるような胸の痛みと、
涸れることを知らぬこの涙だけだった。

羽入は最期の言葉に、どのような想いを乗せたのだろう。
1000年前の悲劇。
100年間の苦楽。
だけどそれも、今となっては確かめようもない。
羽入の思い出のカケラは、もう梨花の胸の中にしか残っていないから。
だからこそ、願わずにはいられない。
最期の瞬間だけは、非業の人生と世界の理不尽に苛まれることが無かったと。

梨花の悲痛な慟哭が、闇の中に溶けていく。
未だ降りしきる初雪の中、聞くものさえいない古手の本宅の中で、
うずくまる梨花の体を包み込むのは、夜の静寂だけだった。



第四章 羽入



娘のぐずる声で、我に返った。
あの頃と同じ場所、羽入が座っていた縁側に腰掛け、
あの日の別れを想起しているうちに、
眠っていた娘が起きてしまったらしい。

瞳に溜まった涙を拭い、慌てて娘の眠る部屋へ戻る。
お腹が空いたのだろうか、
それともおしめを交換してほしいのだろうか。
確かめるためにそっと娘を抱き上げると、すぐに泣き止んでしまった。
どうやら近くに私がいなかったために、
不安になって泣き出してしまったらしい。

「もう、大丈夫よ・・・お母さんはここにいるからね」

そっと語りかけながら、ゆったりと我が子を抱きしめる。
今まで外に佇んでいたこの体はきっと冷たいだろうに、
娘は安心しきったように、その笑顔を私に向けてくれるのだ。

ねぇ、羽入。
あれから一目見ることも叶わない、私のお母さん。
私はあれから元気な女の子を産んで、
幸せな生活を送っているわ。
あなたはまだオヤシロさまとしてこの土地にとどまっているのか、
それとも本当に天に召されてしまったのか、
子供を生んで「巫女」としての力を
失ってしまった私にはわからないけれども、
それでも、どうか。

どうか、あなたの子孫が健やかに育ちますよう、
見守っていてくださいな。


しばし娘を抱きながら、そんな思慮に耽っていると、
玄関の扉が、カラカラと遠慮がちに開かれる音を聞いた。
どうやら、ようやく夫が帰ってきたらしい。
もう眠ってしまったであろう妻と娘を起こさぬように、
気遣いながら帰宅したのだと思われた。
しばらくして襖が静かに開けられたとき、
先手を打って言葉をなげかけてやった。

「お帰りなさい、あなた」

夫は驚いたように、

「なんだ、まだ起きてたのかい?」

と、あまりに予想通りの反応をしてくれたため、クスクスと一人で笑ってしまった。

ただいま、と夫が娘に顔を近づけると、
娘も嬉しそうに、夫の顔にちょっかいを出している。

夫の体から、お酒の匂いがしない。
きっと会合の中では、家族が待っているからと酒を断りつつ、
早めに切り上げて帰ろうとしていたのに、
村の老人たちに呼び止められるうち帰るタイミングを逃し、
結局この時間まで付き合わされてしまったのだろう。
断りきれず困り顔を浮かべる夫の顔が、目に浮かぶようだった。

夫の人の好さに若干の頼りなさを感じることもあったが、
それでも私と夫婦生活を送るのであれば、
これくらい控えめな人が丁度いい。

そうして、夫と娘がじゃれあう姿を眺めているうち、
奇妙なことに気がついた。
いつの間にか娘は、夫がいる方向とはまったく違う方向を向いて、
無邪気に笑っているのだ。
最初は夫の姿を見失っているだけなのかとも思ったけれども、
それにしては様子がおかしい。

「どうしたんだろう?壁の模様と僕の顔を、間違えているのかな?」

夫も首をかしげている。
そんな夫を見て、突如、強烈なデジャヴに襲われた。

そうだ、これは体感にして何十年も前のこと。
まだ父と母が生きていて、この古手の本宅に家族3人で暮らしていたときのこと。
私が羽入と遊んでいるとき、
母はいつも怪訝な表情で私を見つめていた。

あの子は誰と遊んでいるのだろう。
私には見えない、何かがそこにあるのだろうか。
母の表情は浮かぶ疑問を隠そうともせず、
その困惑をよく物語っていた。


そう。だから、もしかしたら。
この子には、羽入が見えているのかもしれない。
羽入は天に召されず、まだこの雛見沢村にいるのかもしれない。

それは、あくまで可能性の話だ。
単に娘が壁のシミか何かを、見間違えているだけという可能性の方が現実的だ。
わかっている。そんなことはわかっている。

だけど、私には見えた気がするのだ。
羽入が、私の娘とじゃれ合い、遊んでくれている姿を。


娘はまだ、誰もいない壁に向かって、笑顔を向けている。
その方向に私も視線を向けてみる。
やはり、何も無い。
だけど私は、告げずにはいられなかった。
私が世界でもっとも愛する、二人の名前を。

娘を抱き上げ、そっと接吻する。
懐かしさに胸を締め付けられ、愛しさに心が焦がれた。
溢れそうになる涙をグッと堪えて、万感の想いを、ずっと伝えたかったその想いを、言葉に託そう。
この部屋にいる、全員に聞こえるように。
ゆっくりと、想いを告げた。


「――愛しているわ、羽入」


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